この仕事の好きなところは、手を水で洗い流す、それを何度もできるところだ。
手で水を受けている時は、その美しさに見惚れているだけでいい。
カウンターを挟んで真正面に座る三人組のひそひそと話している声も、
こんなに細く流れる水の音が掻き消してくれる。
真ん中に座る男は、光沢がある髪が目立つ、髪だけではなく、彼自身も全て作り物ではないかと思ってしまう程ちぐはぐに見える。出来損ないの作り物。
ちぐはぐ男の右手、つまり私が向かって左側に座る男は、入ってきてからずっと俯いている。
顔を覆う髪の隙間から、高い鼻だけ覗いている。顔を上げたら、綺麗な顔をしているだろう。
少なくとも、ちぐはぐ男と、その横の特に印象に残らない男より魅力的なのは、間違いなかった。
ちぐはぐ男は、俯いた彼にずっと何かを語りかけていたが、彼の心が動かない様子を煩わしく思ったのか、声を抑えることができなくなっていった。
タイムスリップしたような精神論を、漫画のような奇跡を、品を感じさせない声量で、世の中の真理を分かっているように、唾を飛ばしながら話し始めた。
私は、店内のBGMをほんの少し大きくして、それに対抗してみる。美しいBGMはその美しさのせいで、彼の声を誤魔化すことができなかった。
微かな隙間を見つけて、彼らのグラスを回収し、新しくお酒を作る。
その時も彼は顔を上げなかった。
三人とも、音楽をしているのは分かった。それぞれが、どうみても楽器と分かる大きなケースを持っていた。
私には、ギターやベースに見えた。もしバンドをしているのだとしたら、俯いた彼はベースで、真ん中のちぐはぐ男はボーカル、右の・・・よくわからないやつは、何だろうか。ドラムもギターも想像できない。想像できるのは「国語の先生」だ。
勝手な偏見だが、私はそう思った。
新しいグラスをそれぞれの前に置き、3歩分くらい離れたシンクで、溜まった洗い物をする。
何者かになれたかもしれない、過去の可能性を思い出す。過去の可能性は、決して未来の可能性にはならない。
それでも何度も、起こるはずのないストーリーを想像した。脱落者は、他人事にして。
洗い物を終え、蛇口を閉める。いつもは気にならない、キュッという音がやけに響いた。
俺はなれない。
彼の低い声は、とても小さいのに、地を這うようにして、私の耳まで届いてしまった。
あんたらが共感して、憧れてるようなやつらに、俺はなれない。
あんたらがなるとも思わない。
彼はその声を、私の大切なお店の床に染み込ませると、ひとり出て行った。
似合いすぎる黒いジャケットを羽織って。