志真の記録

内向的人間のちょっとした発信。

コーヒーのうしろに

今週のお題「大発見」

 

 

見つけるべきではなかったかもしれない。

 

貼り紙で募集するアルバイト、

昼でも薄暗い店内、

マスターの入れるこだわりのコーヒーは格別に美味しいのに、

それは何かしらのきっかけで店に入り、他の喫茶店と同じように、なんとなくコーヒーを頼んで飲むまで、知られることがない。

 

そんな風にひっそりとすることで、この場所を守っているような喫茶店の、物置になっている部屋。

そんな場所に、さらに地下に続く階段が、意図的に隠されているなんて、そうだ、やはり冷静に考えて、見つけるべきではなかった。

 

そして僕はそれをもっと早くに判断しなければならなかったと、それを再び隠す前に、田辺くーん、とマスターの声が近付いたことで知った。

 

戻しきれなかったその入り口を認識したマスターとこの部屋は、しばらく時間が止まっていた。

時間は流れ続け、止めることも戻すことも、進めることもできないのは誰もが知っていることだが、

この時は、確実に、絶対に、

時間は止まったのだ。

 

再び流れ出した時間の中、マスターは黙って階段を覗き込む。

微かな鐘の音が聞こえた気がした。

「マスター、お客さんかも」

僕は返事を待たずに、急いで店内に戻る。

 

「やぁ。ずいぶん静かですね。閉まってるのかと思った」

「奥であの、探しものをしていて、お待たせしました」

常連の笹川さんはいつもの席に座り、マスターは?と聞く。

すぐ来ますよ、と水とおしぼりを並べながら答えるが、階段を覗き込むマスターの酔狂したような表情が僕の心に引っかかったままだ。

 

笹川さんに少し待つように声をかけ、様子を見に行くと、マスターがいなかった。

絶対に階段を降りたのだと、さすがの僕でも分かった。

 

マスター!と、囁くような、でも遠くには届いてほしいような声で呼びかけながら、僕もそこを降りていく。

僕はコーヒーを淹れられない、笹川さんが待っている、つまりそうするしかなかった。

 

ふと、先に明かりが付いたのが見えて、さっきよりも小さいけれど、

確実にそこまで届く声で、マスター、笹川さんが、と言ったところで、僕は声を失った。

 

世界から隠れるような、赤みを帯びた光に照らされるそこは小部屋のようで、

芸術を知らない僕が息を呑むほどの、絵画やよく分からない形や色の置物が、足の踏み場もない程に置かれている。

 

この空間を作った人は、それらをおそらくとても丁寧に並べたのだろうと分かる。

その数の多さを感じられない程、それらは今置かれているその場所に存在するのが、ここが誕生した時から決まっていたような、秩序立った並びで、僕とマスターの方を見ているように感じた。

 

「あの、」

 

突然の後ろからの呼びかけに、僕とマスターは声を出す間もない程驚き、崩れそうなお互いを支え合った。

 

「ここを見つけたのは君かな?」

 

こ、この部屋は、ち、違います、僕じゃないです、と、暴れる心臓に操られる声を、必死に出しながら、

なぜか冷静な脳みそが、見つけた、という笹川さんの言葉を反芻した。

 

この部屋が、マスターも僕も知らなかったことを、この人は知っているのだろうか、と、

暴れて手に負えなかった心臓が、すーーっと静かになり、今度はゆっくりと、全身に響く程の大きさで脈打ち始め、緊張が僕を包み込んだ。

 

僕の表情が変わったのに気付いたような様子で、笹川さんは今度はマスターを見た。

 

マスターはまだ部屋の中に目を向けたままで、もしかすると僕にも笹川さんにも、気が付いていないのかもしれない。

 

「マスター、勝手にここを借りてしまって悪いんだけどね、これは全部ぼくのものです」

 

笹川さんの言葉で、マスターはやっと目の焦点を、彼に合わせた。

僕は、笹川さんの言葉を予感していたような、していなかったような、驚いたけれど、そうであってほしかったような、よくわからない感情で、もう考えるのをやめた。

 

僕はただのアルバイトで、ここは僕の土地ではないし、これらも全て僕のものではないし、よく考えたら僕に関係があることなんて、ひとつもないじゃないかと、自分でもどこに隠れていたのか分からない冷静さを引き出してきて、脳の混乱を止めた。

 

「笹川さん、こんなもの、どうやって集めたの?」

 

笹川さんは、ほっとしたような、柔らかい息を吐いて笑ったように見えた。

「分かりますか?全部本物です、こんなの、表の世界じゃ手に入らいのでね、人様に言えないような方法で、こつこつと、大変な時間をかけて集めました。そしてぼくは、それがいちばん美しく見えるように、ここに飾っています。誰にも見つからず、ここで隠れて死ぬために、それだけのために生きてきました。でも見つかってしまったなら、また隠れる場所を探さないといけない」

 

その部屋の真ん中で、ひとつひとつと目を合わせながら言う笹川さんが、マスターに向かう。

 

「悪いのですが、一週間でいい、何もなかったことにして、静かに、いつも通り、お店を営業して、マスターも君も、いつも通り働いていてくれませんか。その間に、ここはなかったことになるから」

 

最後の方は、とても静かな言葉だった。

無関係の僕が、涙を流しそうになるくらい。

 

「いや、それはもう無理だ、笹川さん」

 

マスターの言葉が、笹川さんのものになっていた空気を一気に持って行ってしまう。

僕も、今度は本当に驚いてマスターを見た。

「無理ですか、ではどうしましょう。ちょっと物騒なことになってしまうかもしれません」

 

その声は、低く、冷たく変わる。

丁寧な言葉遣いが、その言葉の温度をさらに奪う。

 

「お願いしたい、笹川さんも、今まで通り変わらずにいてほしい。笹川さんも、そしてこの部屋も、今まで通りここにこうやって、存在していてほしい」

泣きそうな目をしたマスターは、懇願するような、切実な声で笹川さんに言う。

 

「こんなの、知ってしまったら笹川さん、僕ももう戻れないよ。この部屋なしに、この店がここで営業し続けるなんて、考えられないんだ」

 

笹川さんの目は細くなる。その柔らかい表情は、マスターの願いを受け入れたように見えた。

 

「マスター、君は何も変わっていない。何も変えずに、今まで通りでいたらいい、決して難しいことではないですよ」

 

笹川さんはそう言うと、階段を登って行く。

マスターは立ち尽くして、まるでその部屋の一部になろうとしているように、動かない。

 

僕が階段を登り店に戻った時には、笹川さんはいなかった。

営業終了までまだ時間はあるが、シャッターを半分下ろし、closeの札をかけた。

 

明日からここに来ることはないだろう。

辞めようと思ったわけではないのに、どうしてもここで明日も働いているようには、思えなかった。

 

そして想像の通り、僕はもう出勤することはなかった。

もう少しで一カ月になる。

 

さっきその喫茶店の前を通ると、マスターお手製の看板があった場所には、「テナント募集中」の看板がかかっていた。

 

僕は最後に笹川さんにお願いしなければならなかった。

 

次の場所は、絶対に誰にも見つからない場所にしてください、と。

 

僕はすぐにあの場所から離れたおかげで、二度と戻らなかったおかげで、日常に戻れたのかもしれない。